引き出しを開けては閉める
2021年、まだ1ヶ月半くらいしか経っていないが、仕事運としては散々である。一気に売上の75%近くを失い、制作系の単発の仕事にきた問い合わせはことごとく提案が通らなかったり人としてヤバい感じの人がいてコミュニケーションコストだけかかったり、こうも「時々起こる」ようなことが一気に来てしまうと、さすがにへこむ。ただいつもと違うのは、へこむが自省するような内容ではない気がして、自省はしてない。
次にこのブログを書くとき、どんなことが起こっているかなとふと思う。まあとりあえず生きていればどうにかなるかなぁ、くらいの気持ちで生きていこうと思う。
絶望と戦い、望みを再構築する - 仕事ときどき女の子
おい、2020年11月の自分、聞いているか。 仕事はない。ないがとりあえず生きてるぞ。
一気にものごとが進み、私も一気にものごとを考えた。まず、仕事に対しての熱量がまじでない。私は大したスキルがないし、ビジネス的なテクニックもなく、自分を誇張して見せることに違和感しかないと気付き、それに傷つくわけもなく反省することもちゃんとしようと思うことなかった。
それに、インターネットという場所がもう私にとっての居場所ではなくなってしまった。ここは「嫌で逃げてくる場所」でもないし、ただただ子供の頃から嫌だった「普通の社会」があるなということに気付いた。これはすごく悲しかった。
今のところ、だからどうするのか全然わかんないけど、きっとリアルの私に紐づくアカウントは、社会に揉まれて生きていくことに、ある程度妥協していく必要があるなと感じる。まあそれでいいやと思う。どうせ本名に紐づくアカウントなんて、とても単純化したそれなりにきれいな、コーティングされた私であることに変わりはない。
「にな」の私がいてよかったなと思うのは、混沌とした世界の中にも居場所があるなぁという感覚があることだ(特に鍵垢のツイッターでつながってるみなさんには、まじでそこらへんの人より私のことをよく知ってると思うしソーシャル親戚くらいに思ってます)。それに、になちゃんの周りにはあまり金の匂いがしないので、それがとてもよい。
話は変わって、ある心理系資格の養成講座に通っていて、ちょうど半分くらいの講座が終わった。この歳になると、新しいことにチャレンジして失敗と成功を繰り返すことへの慣れがなくなってきているのだが、結構愚直に学ぼうとする自分もいて感心する。出来なくてしんどいときもあるが、一緒に受講している人たちも、うまいなぁと思う人もすごく悩んでたりしているようで、今はそんなゆるい仲間意識を感じられることがよいなと思う。
人の心の内を聴いていくことを学ぶので、受講生それぞれ心のいびつさを目の当たりにしたり私もさらけ出したりする。時にはパンドラの箱も開く。でも、それを非難したり判断する人はいなくて、観察して静かに次に行くような感じ。よく私は「引き出しを開けては閉める」みたいな言葉で表す。
みんなどこかで必ず苦しんでいて、それを抱えながら生きているんだなぁというのをナマモノの感情として目の当たりにして、今の私にとってはそれが逆に落ち着くというか、安心するというか、不思議な気持ちでいる。
傷ついたり悩むとき、自分が大事にしているものを守りきれなかったことが同時に起こっている。だから、守れなかったものがデカいほど生きづらさも比例して増してくる。
いつも引き出しを固く固く閉めておきながら生きていく。ときに開いてしまったり、その開いたものを自分や他人に見られてしまってしんどくなったりするけれど、ときどきは引き出しをそっと開けて、そこにあるものをただ「あ、こんなものがあるなぁ」とだけ思って、そっと閉じるのも大事なことなんだろうと思う。プロの心理職の人はこれを人と一緒にやっているんだなと思う。
私は2020年から、今まで自分が歩んできた道を大きくひっくり返そうとしている気がしている。今まで盲信してたことにお別れを告げたり、逆に信じてなかったものを信じてみたい気持ちも湧いてきて、まさに渦中、渦の中でぐるんぐるんしてる感じ。着地点もわからない。
日々悩み、日々それを言語化していく作業をただただ積み上げている時間なんだろうと思う。