仕事ときどき女の子

仕事も女の子もがんばらなくなりましたが、豊かに生きてます。

どこまで年のせいなのか

無事転職に成功し、社会的信用も手に入れ、何も悩むことなんかないはずだったのに悩んでいる。

会社員になって思ったのは、コミュニティに属すとそれを基準として自分のことを測ろうとしやすいことだ。あの人と比べて劣っている、勝っている、負けていない、ここがダメ、若いのにすごいな…と、ナチュラルにこんなことを思いながら仕事をせざるを得ない。別に誰も悪い人じゃない。でも自分をかわいがりたい気持ちはいつまで経っても手放せるものではなく、エゴは肥大化するばかりである。

自分の可能性を信じる気持ちが比較的強く、その気持ちは自分を苦しめたりするのだが、とはいえもう30を超え可能性の伸び率などわかりきってしまったし期待されることも無茶なものじゃなくなり、ふとそれに気付いて若干絶望した。もちろん伸ばせるスキルはあるとは思うが、もう秘められた何かが開花するわけでもなく、体力もなく、踏ん張れるほどの強い気力もない。淡々と、合理的に、目の前の目標を分解し、タスク化し、作業をし、ひとつづつ完了ステータスにしていく。それだけだ。

友達の相談を聞いていると、離婚してすぐ別の人と付き合う友達もいれば、彼氏の母親のようになってしまい振られる友達もいるし、いつも旦那の愚痴をこぼして数時間止まらない友達もいる。それらをへーとかはーんと相槌を打ちながら聞いていられるのは、私には関係ないところで起こっていることだからだ。それが私事になったら、きっと耐えられない。

誰かの心をえぐり、えぐられることはとてもこわい。恋愛は別に必要ないからしないんじゃない。こわいから自分からいかないのだ。受け身でいれば相手のせいに出来るから楽だ。そうやってこれまでやり過ごしてきた。その恐怖心を乗り越えるほどの、熱い何かや別の恐怖心が支配することはあるのだろうか。誰かと一緒にいたい気持ち、誰かと人生を共にしたい気持ちはあるのだが、そこにセット抱き合わせオプションが多々あることがとてつもない違和感がある。そのオプションをいらないと言っていい理由が欲しい。いっそのこと自分をマイノリティだと認めてしまえばオプションを放棄出来るんだろうが、別に自分のことをそうとも思っていない。普通の枠にいればある意味楽だし戦わなくていいからかもしれない。

友達の相談を聞くたびに、恋愛が他人事になっていく。こわいという気持ちが大きくなっていく。傷ついてまで一緒にいる理由が一生わからない。でも意識してしまうのは、本当は恋愛をしたいんじゃないかと思う。とはいえ、恐怖心の方が大きくて何も出来ない。仕事は合理的に戦略的に進められるというのに、なぜ恋愛はこうも一歩を踏み出せないのか。マッチングアプリを戦略的に攻略していくことだって出来るはずだ。KPIを設定し、日次や週次でPDCAを回していけるはずだ。でも感情をパンドラの箱に入れたまま開けられない。未だに7年間付き合っていた人のことを日常的に思い出す。別れてから、もうすぐ7年経つ。そのうち、付き合っていた年月より別れてからの年月の方が長くなるだろう。それでも思い出す。これ以上考えるとパンドラの箱を開けてしまいそうだ。

そんな、なんだかどうしようもない気持ちになってしまい、こうしてブログを書いている。とりとめねえ。