仕事ときどき女の子

仕事も女の子もがんばらなくなりましたが、豊かに生きてます。

恋愛・結婚というパッケージはオプション過多すぎる

前回の記事で恋愛をしたいんじゃないか自分、と書いてあるが、実は恋愛したいわけではないんじゃないか説が浮上してきて苦しかったので書き留める。

結論を言うと、私は生活を共に歩むようなパートナーはほしいのだが、恋愛からの結婚といういわゆる世間の王道パターンを歩めば幸せかと言われればそうでもなく、かつ恋愛・結婚に関わる様々なイベントなど、いるものといらないものがひとまとめにされていて嫌だなと感じている。

そんなことをなんとなく感じ始めた頃に友達に相談したら「恋せぬふたり」っていうNHKのドラマを紹介されて、こういう感じ?と聞かれた。このドラマはアロマンティック・アセクシャルな2人が家族を作っていく物語。「私と、恋愛感情抜きで家族になりませんか?」というセリフが印象的だった。

興味深く観て、すごくわかるし私もそうしたいなと思える部分もあったし、でもアロマンティック・アセクシャルではないからすべてが当てはまるわけでもなかった。ただ、恋愛から結婚するまでのよくあるプロセスに疑問があるんだという自分を理解し、観てよかったと心底感じた(友達よ、ありがとう)。

私には、恋愛から結婚の王道パターンが無理だった過去がある。長年付き合ってきた当時の恋人と、子供の話やあちらの家族との付き合いを求められて、それがとてつもなく嫌だった。でも、子供や家族の話をしたくないと伝える術も当時はなく、私がおかしいんだと思わざるを得ず、当時の仕事のハードさも相まって精神的に病んでお別れをした。その人のことは本当に好きだったし、心の底から愛していたと感じているし、愛されてたと感じている。でも、私たち以外の、外側にある得体のしれない圧力によって関係を続けることが難しかった…と結論付けすべきだろうか。

私は、好きの感情にカテゴライズがあまりない。付き合ってそこそこの年数の人、職場の同僚、仲のいい友達、推しへの好きと、そこに明確なパーテーションがない。ただ、長年付き合った恋人には明確な特別感がある。こういう感じを、クワロマンティックとかデミロマンティックと呼ぶらしいのだが、だからといってこの言葉にすっぽり入るかというと、やっぱり違うなとも感じる。

だからこそなのか「恋愛はロマンチックであるべきだよね」「恋愛の先には結婚があるはずだよね」「欲求をぶつけたら答えるべきだよね」みたいなことを言わずとも求められてしまうと、困ってしまう。数年前に付き合った恋人は、燃えるような恋愛を望んでいたが私が早々に苦しくなってしまった。それを話し合える土壌もお互いになく、恋愛至上主義の恋人の望むものを与えられず、私も望んでいたものを得られなかった。結局、お互いのスタンスを「言わなくてもわかるよね」で片付けてしまうと、足並みが揃わない。

恋愛・結婚に対しての「こうあるべき」なものをひとつずつ精査しないと、私の場合後々きつくなってしまう。それらはパッケージ化されていて、欲しくないものまで包括されていて、いらないオプションを取り外すのにカロリー使う必要がある、みたいなイメージがある。私にとっては、オプション過多すぎる。結婚の基本パックは契約だけでいい(バリエーションはいろいろあるとは思うが)。それに付随するいろいろ(家族とのお付き合いや子供を作るかや一緒に住むかなど様々)は、ハードル低くカスタマイズ自由でいたい。だからこそ、このオプションいらないんだよね、と話せる土壌づくりとパートナーの属性が必要不可欠だなと感じる。

最近マッチングアプリを始めた。昔使っていたときよりも変化してるなと感じるし、ある程度条件を絞って探せるのはいいのだが、やっぱりTHE・恋愛結婚を前提としている作りになっていて少し苦しい。空気を読んで、無難なことしか書けないなと思ってしまう。

別の友達にも↑のような悩みやマッチングアプリのことを話したら、A/Bテストしてみよう!と提案された。4つアプリがあるうち2つに、恋愛・結婚観を正直に書いてみようと。さっそく実践しているが、なかなかいいかもしれない。

まずは私自身が自分どうしたいんだの部分をちゃんと見つけてあげることが大事なのかもと思った。まだ手探りな部分はあるが、世間の流れに身を任せつつも大事なところは譲らず、人生を考えていけたらなと思っている。