仕事ときどき女の子

仕事も女の子もがんばらなくなりましたが、豊かに生きてます。

思い出を閉じ込めていく

祖母の四十九日直前にコロナに罹ってしまい、葬儀から一度もお線香をあげられずにいた。涼しくなったら行くねと叔母に伝えてはいたものの、仕事で頭がいっぱいいっぱいでなかなか行けずにいたのだが、やっと今日叔母宅に行き仏壇に手を合わせ墓参りもしてきた。

介護ベットも片付けられ、きれいな着物姿の遺影が飾られた広間は、祖母が亡くなったことでいよいよ「おばあちゃんち」がおばあちゃんちではなくなり、本当に何もなくなってしまったんだなという感じだった。ただ、そこには物理的にもう何もないが、思い出だけがわいわいがやがやとしている。そのうちこの家も土地もなくなるんだなと思うと、言い表せないような大きな悲しみがやってくる。

子供の頃駆け回った植木や花で囲まれた玄関までの道のりや、池で泳いでいる鯉、飼っていたスピッツももうそこにはいない。よく遊びに行っていた公園も、背の高いアスレチックは撤去され、砂場は柵で囲われ、草花はほとんど手入れがされていない状態になっていた。物事は衰退していくんだなと、地元を離れたことで更に身に沁みて感じる。そして、あのときの情景は思い出のまま私の中で美化し心の中に閉じ込めておき、いつか死ぬときにまたそこに行くんだろうな、とも思う。

叔母は一見元気ではあったが、やはりまだ寂しさやつらさを拭いきれていなそうだった。ふとしたときに祖母のことを思い出す、とも言っていた。生まれたときからずっとそこにいた母がいないのだから、その悲しい違和感を受け入れるにはまだ時間がかかるだろうなと思う。

そのつらさを加速させるのが叔母の妹である私の母親で、本当にしょうもないクソムーブのせいで叔母がひどく傷つき泣きながらエピソードを話してくれた。ため息しか出ない。なぜそういうことを言えるのか、なぜそういう行動を取れるのか、まったく理解できない。ただ叔母が受けたクソムーブを一緒に怒ることしかできなかった。

ただ、そういう母親のクソムーブの話を聞いていると、少し救われた気持ちにもなる。外ではいい母親として見られていたから、私は間違っていて薄情な人間で母親のことを信じきれないダメな娘だと罪悪感を抱えて生きてきたのだが、やはりそうでもなくて人を平気で傷つけるくせに保身はしっかりするような人間だとわかることで自分を肯定できる一面を持っている。

そんな切ない思いを抱えなければいけないが、もうここまでくるとしょうもない気持ちにもなる。せめて相続の話はしっかり言質を取ること、法的に縛り上げて感情論を排除していくことが大事だと思った。

叔母に会えてよかった反面、叔母が母親のせいで傷ついてしまったことに対して本当に悲しい気持ちでもある。そんな複雑な気持ちをここに記しておく。

最期の味は水羊羹

あれから約2週間、祖母が亡くなった。

先週金曜日、朝起きたら母親からあっさりしたショートメールが届いていた。覚悟はしていたとはいえ、涼しくなってきた頃また会いに行くねって約束したけど叶わなかったなと思ったり、曾祖母にそろそろこっちに来いと言われて祖母は拒絶したもののついに観念してそっちに行ったんだなって思ったり、じっとしているとただただ悲しかった。デスクに着席し仕事をし、中抜けし喪服一式を揃え、オフィスでミーティングを4本こなした。忌引きをいただくのでと断ってタスク類を同僚に引き継ぎ20時頃オフィスを出て、コンビニで祖母の大好きだったモンブランを買い食べた。

今日一日で葬儀から納骨まで済ませた。慣れないパンプスを履いて駅でズッコケた。暑いしラッシュの電車は最悪だし、でも前日から実家に帰る選択もせずに、電車を乗り継ぎ、現金払いしか選択肢がない高齢化甚だしいタクシー会社のタクシーに揺られ、葬儀場へ向かった。

祖母はとてもきれいだった。家族の写真、私が小さい頃の写真、買ってもらったミニーマウスのぬいぐるみを抱く私と祖父母の写真などが棺に入れられ、きれいな花に囲まれて火葬された。少しの骨と、人工関節が残った。祖母がこの世で最後に食べたのは、私が手土産で持っていった水羊羹だったらしい。

数年ぶりに合う両親は数年分の歳を取っていて、大して話をせず妹と話をしてやりすごした。母、妹、私で車に乗っても、まるで私がいないかのように2人で話が進んでいく。最近元気?とも聞かないし聞かれない。父親は相変わらず文脈をガン無視して話しかけてくるし、その空間にいるとそれが普通で、私も麻痺してきてリアルタイムで歪さを感じられない。そういう家族なんだな、なんだか仕方ないな、という気持ちになった。仕事をしていた方が楽だなと思った。

この世の人間がスライドするようにいなくなっていく。私の祖父母4人は皆スライドしてこの世から去っていった。私は後世を残さずにこの世からスライドしていなくなる。そんなことを考えながら家に帰ってきた。一人になったらちょっとだけ寂しくてYouTubeでMVなどを流し続けている。

 


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お迎えを拒絶した祖母と、この世を拒絶したかった孫

母親から数年ぶりにメッセージが届いた。おばあちゃんが心臓発作を起こしてお迎えが近いから会ってあげてくれと。

コロナ禍になってから地元に帰っていない。コロナが原因ではなく、単純に家族に会いたくないから地元に帰っていないという、ただそれだけだ。いい「言い訳」として十分利用をさせてもらった「コロナ禍だから」もそろそろ使えなくなってきて、目を背け続けてきた本心と対峙することになった。

 

母親から一報をもらったとき、会いに行きたい気持ちと、このまま会えなくてもいいかもしれないと思う気持ちと、真っ二つに割れた。祖母のうちにはよく泊まりにいき、子供の頃はたくさん会って、裁縫を教わったり一緒にお団子を作ったりいい思い出がたくさんある。でもその一方で、あの私の母親を育てた張本人でもあると思うと、複雑だった。すぐにでも会いに行きたいと思えない自分は鬼なのかと思ったりした。

祖母は叔母の家で過ごしていた。家で死にたい、延命治療はしないという希望があって叔母が介護をしていた。叔母は私と母親との関係に理解のある人で、たまに元気でやっているかと電話をしてくれたりしている。だから叔母に電話をして個別に訪ね、祖母に会えばいいだけなのに、気持ちが定まらずに悶々としていた。

 

でも先週あたりに、いよいよ叔母に電話をしようと思い、スマホの連絡帳から叔母の名前を探した。あとは電話ボタンをタップすればいいだけなのに、1時間近く画面を眺めた挙げ句ボタンを押せなかった。

そうやってスマホをただ眺めていたとき、急に友達から着信がきた。

びっくりして1秒くらいで出たもんだから友達も同じくびっくりしただろう。ちょっと誰かと話したくてさ、とのことで話を聞いていた。

ひとしきり話を聞いたあと、最近元気?って言われて、実は今さ…と祖母のことや今ちょうど叔母に電話しようか悩んで一時間経ったって話した。もう会えなくなるかもしれないのに会いたいか迷ってるなんて、人の心がないのかな私って、みたいな話をしたり、最近悩んでいたことなんかを話しながら、自分の思っていた以上に心が切迫していたようで号泣してしまった。

でも友達はあっさりしていて、別に会いたくないならそれでいいんじゃない?そういうになちゃんだとしても別になんとも思わないし嫌いになったりしないし、と言ってくれて、なんだか胸がスッとした。

この話のとき、友達がドラマの「カルテット」でもそういうシーンあったよね確かさ、と言っていて、たしかにそんなシーンがあったなと記憶を蘇らせた。

この回は、すずめちゃん(満島ひかり)の父親の死が迫っている中、父親と確執のあるすずめちゃんは病院の前まで行けるか病院の中には入れない。巻真紀(松たか子)がすずめちゃんを見つけて近くのかつ丼屋でかつ丼を食べるんだけど、「怒られるかな…ダメかな、家族だから行かなきゃダメかな、行かなきゃ…」と悶々とするすずめちゃんに真紀はこう言った。

すずめちゃん、軽井沢帰ろう
病院行かなくていいよ
カツ丼食べたら軽井沢帰ろう
いいよいいよ
みんなのとこに帰ろう

と。で、すずめちゃんは父親に会わずに軽井沢に帰っていった。私もよく覚えていた。

 

友達との電話を切ったあと、カルテットのこの回を観た。少し心の荷が降りた気がした。でも、私がすずめちゃんで真紀に会わなくていいよと言われても、軽井沢には帰れないし帰ったとして多分後悔するだろうなと思って、よし会いに行こうと心が決まったので叔母に電話をし、今日会ってきた。

 

祖母はベッドにいたものの、意識もあって自我も強く持っていたし、数年会っていないのに私のことも覚えていた。心臓発作が起きた数日後から食欲を取り戻して、普通に元気な状態だったという。来てくれてありがとうね、と泣きながら手を握られたときは本当に来てよかったと思った。

数年ぶりに会う叔母は数年分老けていて、老老介護状態でしんどいけど後悔のないように介護をしたいんだということ、独り身の叔母は今後どう生きていくかを悩んでいることや、LINEのアイコンを変えたいんだが、という話までいろいろした。

母親のことも、やっとちゃんと話すことができて、あのときあんなことを言われて傷ついたし人生の足かせになっているということも赤裸々に話し、叔母も叔母で介護を巡ってひどいことを言われて、ひどく傷ついたというエピソードも話してくれた。

しょうがないよ、お母さんも社会の歪みに巻き込まれた人のひとりだしさ、と言ったけど、当時結婚を反対されてもあの人(父親)の家に入ったのだから、人生に責任持つべきだと毅然とした態度で言ってくれて救われた。

その後、持っていったお中元のお茶とおかしを食べながら、叔母のキャリアについて昔話を聞いておもしろかった。これまで、一切そういう話をできていなかった。母親の前では、叔母のキャリアの話などしたら不機嫌になるに決まっているからだ。やっと、大人の私と対等に話が出来るようになったことは、人生の財産だと言っても過言ではないのかもしれない。

 

叔母から聞いたのだが、祖母はある日、夢で祖母の母(私の曽祖母)に早くこっちにきなよと言われたらしいが、祖母はまだ行かないと答えたらしい。

おばあちゃんは、なんでまだ生きたいのだろう、この世をそんなに愛していたのだろうか。もうそんな難しいことを聞いても答えられないだろうが、また来るからねって手を握ったときの祖母から返された握力があまりにも力強くて、また会おうねと返事をしたのだから、まだまだお迎え拒絶なんだろうなと思った。

対して、私はこの世をゆるく拒絶しながら、いつ死んでもまあいいやくらいのノリで生きている。私が死ぬ間際、あの世からそろそろ…なんて声をかけられたとき「あ、まだ行けないんで」と言えるんだろうか。

 

そんなことを考えつつも、今日はいい日だったし、会いに行ってよかったなって心から思えてとてもよかったです。これ以上の語彙などいらず、本当によかったなってただただこの一言だけです。

(どうでもいいけど,おばあちゃんの力強さを感じたら、なんだか揚げ物が食べたくなりモスバーガーでサイドメニューてんこ盛り頼んで一気に食べた。)

正論が守ってくれても、事実は変わらない。

ninatanpe.hatenablog.com

前回の記事で書いたんだけど、

自分のことを差し置いて誰かのことを考えようとするのは、やりすぎると毒になりやすい私の性質だ。ただの平社員が身の丈に合っていないことをしている部分もあるとは思う。

このあたり、自分が過剰に変な方向に暴走してしまい、上司を責めたくなったり、自己嫌悪に陥るループがどうも抜けなくてしんどいのだが、ある日の夢で無意識下に蓋をしておいた見たくない自分を垣間見て、自己セラピー的によく理解をしたので書き留めておく。理解はしたが、やはり見たくないものなので複雑な気持ちで距離を置いている。

ある日の夢。夢で観たのは幼い妹を気にかける私だった。何もかもを把握しており、好きなおもちゃやこれからあげる予定のおもちゃを母親以上に把握している、あいまいだがそんな夢だ。家族の夢ばかり観るし、夢の妹は必ず幼い。

妹の面倒をよくみる姉、母親よりも妹のことがよくわかっている私。妹を「後輩やチームのメンバー」母親を「上司」と置き換えてしまえば、今のよろしくない状況が見えてくる。

ここまででも十分何言ってるかわからない文章かもしれないが、ここからはもっと私のためだけに書き留める。

母親、妹、私それぞれが、それぞれの人生に深く傷をつけている。そう思う。私も妹を守りきれなかったことで傷つけたし、私が生まれたことで母親の人生を傷つけた。いくら正論が私達を守ってくれようとしても、傷をつけあった事実は変わらないと思いながら生きている。

自分の好きなように生きた途端に妹を母親から守りきれずに歪ませてしまった、みたいなところが私の古傷で、その構造がきっと今のいびつな状況を作り出しているのだなと思う。そして、当時果たせなかった思いを再現させて、今度こそは成功させようと息巻いているのだが、執着から生まれる行動はろくなことにならず失敗する。

こんなところだろう。

誰かのことを気にかけていなければいけない、自分を差し置いて誰かのことをケアしなければならない、という価値観が骨の髄まで沁み込んでいて神経を蝕んでいて、強く自制していないと自分が暴走してしまう。そういう状況を作った母親を誰かに重ねて憎悪を募らせる。どうしようもなく誰かを憎みたいし自分を恨みたい。そうしないと自分を保てない。本当にしょうもない。何歳になったらこういう気持ちがなくなるんだろう。

 

寝る前にこのエッセイを読んだら自分の無意識の扉をノック出来ました。

 

会社員の愚痴あるあるを言いたい

会社員って難しいね。ある意味、フリーランスよりも心を保って生き抜くのむずくね?と思っている。

最近あれやこれやと嫌なエピソードにぶち当たって、少しずつダウナーモードの沼に足をツッコミ、もはやずっぼりハマっている。いくつか書きたいエピソードはあるが、いったんひとつだけ書き留めておく。

 

マネジメント職って何する人たちなんだっけ?という疑問との戦いがある。うちのチーム、チーム外から「マネジメント下手くそチーム」としての烙印を押されているという噂を聞いて、チームの中にいる人間としては否定出来なかったところが非常に悲しく切ない。

そして先週のこと。人事異動について発表があり、ある問題の多い人間がマネジメント職に昇格することが発表された。それを聞いて絶望した。あ〜そういう方針なんだ〜って虚無で心が空っぽになった。仕事に対する広い知識もなく、その人と仕事をするの無理ですとチームから外れる人も過去にたくさんいると聞く。私はそいつのことを「仕事の出来ないサイコパス」と名付けている。(厳密に説明するなら、感情を無視することでいい成績が残せるタイプの仕事に対し実績はある。もちろんお客さんのことも一緒に働く人のことも考えない。そんである日のこと、そういう状況に少しばかし反論をした数日後にチームから外されたのが私だ。)そんな人間がマネジメントか…。そりゃ私の主観では絶望しかないわけで、マネジメント職に適してますね!となるわけもない。

これで部署のマネジメント層はホモソーシャル集団かつマッチョ思考の人間で固められた。ここから、優しい世界が生み出されることはないだろう。ただ金を持ってこれる人間だけが認められる世界になるだろう。それが資本主義だとは思いつつ、私のような共感能力が無駄にある人間にとっては、しんどい土壌で戦うことになりそうだ。

マネジメント下手くそチームあるあるが詰まっている環境だなとは思う。マネジメント層が人を大事に思っているような口ぶりで話すものの、行動は非常にドライで突き放しがち。好きにやっていいんだよと放任主義を装っていざやるとあーだこーだと正論でねじ伏せてきたり、この件は任せると言ったくせに最後の最後にしょうもない理由で人から決定権を奪って物事を着地させたりするのが得意らしい。後輩のスキル不足も否めない。新しいアイディアを口に出せないし、データから導き出される仮説も乏しく、それは彼らの個人的な問題というより、創造する機会を奪ってきた産物だと感じる。

自分にできる範囲で後輩たちと新しいプロジェクトを立ち上げてみたりして、1から運営を任せてみたり一緒に創り上げるような体験を積み重ねてきたが、そうやってチームのことを考えていると「チームのことばっかり考えていて自分のことが置き去りになっているように見える。それはマネジメント職の仕事だから」などと上司に指摘されて地味にハートブレイクする。

これには図星なところもあり、自分のことを差し置いて誰かのことを考えようとするのは、やりすぎると毒になりやすい私の性質だ。ただの平社員が身の丈に合っていないことをしている部分もあるとは思う。でもだ。マネジメント職がそのへんちゃんと仕事してくれれば、ここまで介入することはなかったのだが…?とも思う。

やはり立場によって見えるもの、見失うものはどうしてもあるものだなと思う。しょうがない。でもしょうがないで済ませたら自分が死んでしまうので、自分の身の振る舞い方を見直そうと思い始めた。人間関係は最低限の付き合いに留め、いつでも抜け出せるように目の前の仕事をやりきってキャリアの武器を淡々と作ろうと改めて思い直した。

会社自体に不満はないので転職は全然視野にないが、このチームへの思い入れを減らしてはいった方が精神的によさそうだなと感じる。副業をしたり別のチームに入り直したり、そのへんはやりたいと思ったときに動けるように準備は着実にしておきたい。

解放と罪悪感が両腕を引っ張る今日このごろに

年末年始、帰省に対し神経をすり減らしているみんなへ。しんどいよね。なんだかよくわからない相反する気持ちが両腕を引っ張って、自分を引き裂くような気持ちがするよね。

私は今年も帰らない。妹から今年も帰らないの?とLINEが来たのを無視して、複雑な気持ちを胸に染み込ませながら、今年も帰らないよ。

なぜ数年も連絡なしで帰っていないのに、実家と連絡を取り合うこともないのに、私がどこに住んでいるかも教えていない両親との関係性なのに、帰るの?って聞けるのか。ここまで状況が飲み込めないのは、本当に毒だよなと思う。妹もまた毒に侵されているのだけど、本人は気付いてもいない。どんどん母親に似た言動をするから距離を起きたくなる。

両親に会わないだけでこんなにも自分のままでいられるのかと、実家に帰らなくなってから数年、身に沁みて実感している。その分、耐性がもうないから小言を言われただけで心が傷だらけになるだろうし、もし久しぶりに会っても年を重ねた両親を見てきっと心が罪悪感で押しつぶされるだろうと思う。距離を置かねば自分を保てないのに、距離を置くことで現れる負の感情も比例して大きくなる。このような、相反して引き裂くような毒が、毒親の最たる罪なのだと思う。

 

父親から、日記メールが一方的にキャリアのメールアドレスに送られてくる。数年無視しているのに、数ヶ月おきにわけのわからない文章が送られてくる。最近元気か、みたいに私のことを尋ねることもなく、ただ一方的に近状を小説のような文章で送ってくる。そういう人間なのだ。

スマホを変えてから、キャリアメールを自動受信出来なくなったことに気づきブラウザで確認したら、父親からメールが来ていた。手術をしたという旨と、写真が添付されていた。それを見て、ずっと恐れていた罪悪感が押し寄せてきた。同時に、こういうときにも母親は私に連絡をしないことにも複雑な思いを抱えた。言葉にしにくい、怒りの気持ちでもなく、悲しい気持ちでもない、恐怖に近いような、虚無のような、なんとも言えない気持ちだ。この人は、大好きな祖母が亡くなっても連絡しないのかもしれない。もうすでに葬儀まで終わっているかもしれない。それでも確認できないのは、現実を知るのが怖いからだ。とても。まるでシュレディンガーの猫だ。

一回り小さくなった父親の姿を見て、この気持ちをどう処理したらいいかわからず、ただひたすら一人の日常を送り続けている。誰に話すでもなく、夢に家族が出てきても深い意味を考えずにデスクに着席し仕事を始める。そうこうしていたら、もう月末最終週になってしまった。

私はこれからも、両親を許せないんだろうか。心許すことがあるんだろうか。すべてお前のせいだ、というような強い言葉を浴びせたいわけでもなく、だからといってもう傷つけられるのはごめんで、ひっそりと私の知らないところで勝手に幸せになってて欲しいし、私も幸せになって欲しい。ただそれだけなのに、心も状況も年々複雑になっていく。

思い出を置いていくためにiPhoneを手放す

スマホを変えた。正確にはまだ完全に移行してないのだが、iPhoneからAndroid機種に変更した。

思い出を置いていきたいと思った。かれこれ20歳頃からiPhoneユーザーで私の代々のiPhoneには思い出がデータとして受け継がれてきたが、もうこれ以上思い出を持ち歩きたくない、なんて思った。

7年付き合っていた彼のことを夢に見る。もう7年以上前のことだ。数年前に付き合っていた人のことなど思い出しもしないのに、だ。夢を見るたびに落ち込む。楽しそうにしていたり、期待をしている自分を客観的に捉える朝が苦しい。あのときあんなこと言わなきゃよかった、あのときあんな選択をしなきゃよかった、とどうしようもない過去の選択を気にして朝から憂鬱になる。ヨリを戻したいというわけではなく、あの頃に戻って自分を改めたいみたいな気持ちに囚われている気がする。

結局のところ、深い人間関係にアップデートがない人生だ。特に家族に対する気持ちと経験のアップデートがない。私にとっては家族は落ち着ける場所ではないし、傷つく場所だし、抵抗出来ない場所だという思いに囚われている。そんなことないとは理解は出来ているから、心地いい家族を作っていこうと思って行動できればいいのだけれど、自分の感覚に確固たる確信が持てずに何も出来ない。いろいろ考えてみたり行動したりはしたが、うまくいかないかなと思って気持ちがしぼむ(ぼんやりした語彙しか持ち出せないあたり、問題点を整理出来ていないなと痛感する)。

スマホを変えても、別に何も変わらないだろう。それでも変えたのは、手っ取り早く自分の課題から目を背けられるからだ。ただそれだけだ。